空きっ腹に海苔

https://www.instagram.com/tmfmi1981/

辛さを抱えて幾星霜

f:id:tomofumi1981:20171114221325j:plain

この一年その味を追い続けているカレーがある。一口目に甘くて後からひたすら辛い大阪の某有名カレーだ。初めて口にしたのは学生のころ10数年前の話だから、いつか作れるようになることを思い描いていたことを思うと自分も何と気の長い人間であることか。ようやく完成したというのも口幅ったいが、これが作れて食べられるなら十分と思えるようになった。

味の再現に取り組むにあたって、理屈で組む部分と直感でぶつかっていく部分とのバランスが、完成までの時間を左右する。理屈で組む部分とは、この世にレシピとして存在する情報をかき集めて作りたいものの骨組みを具体的に組み上げていく作業である。カレーと一口に言っても、とろみがあって欧風の煮込まれた旨味重視なものなのか、スパイスから作るようなサラサラで本格風のものなのか。具の下処理は、マリネした肉を使うのか何に漬けるのか、野菜は何を使うのか、スープの土台は何なのか。甘みは野菜だけか果物か、砂糖にも頼るのか。等々

この理屈の部分で組み立てることの難しさは、自分の場合とくに、情報に従って考えて作ったからにはおいしく仕上がってほしいという感情がどうしても介入することだ。たいてい、一回二回作っただけでは首をかしげるような仕上がりになってしまう。それでも思い込みでおいしく感じてしまったりする。情報だけをとにかくカチャカチャと積んだり組んだりしただけのものはまずくはないが、いかんせんデコボコの味になりがちである。

なので直感をぶつけてデコボコをならしていく。本物を食べに行って、味だけでなく厨房の情況や営業中の場面にも妄想を走らせて、直感をつかまえる。

一口目の甘さはシロップに近いな。脂の匂いからして肉は国産やろな。仕込みの手順はこうかな。・・等々、頭の中でぼやきながら食べる。そして、理屈で組んだ手順から、あれいらん、これがいる、と手順を足したり省いたり。すると、最初に結構細かく考えたレシピから大体するすると材料が減っていく。少しずつ頭も整理されてきて味の印象もシンプルに捉えられてくる。

このカレーについても、当初は水でなく野菜ジュースを使うとか肉と野菜をオーブンで焼いて煮込んでダシを取るとかワインを大量に入れるとか紆余曲折があった。あってもなくても良い手順をどんどん省いた結果、出来合いのルーも使いつつ1時間も煮込まずに仕上げる手順にたどり着いた。

いろんなことを考えて作り込んでも、一口目の印象がいまいちだとそこから覆ることはない。そして一回目でゴールすることはまずない。ゆえに冷凍庫にカレーが溜まっていく。

慣れるより習え

f:id:tomofumi1981:20171025183401j:plain

あるのは知ってるけど、わざわざ食べへんよなあ、と思うメニューが自分には結構ある。和食でいうと豆や昆布のような乾物、ごま豆腐とか茶碗蒸しとか。洋食では、ゼリー寄せやテリーヌとかはあんまり得意ではない。伝統的なおせち・弁当や、クラシックなビュッフェで見かけるようなものといえる。どれも真面目につくろうと思うと手間がかかるものが多い。それだけ人々がおいしいと思うから、手間をかけてでも長い年月残ってきたレシピのはずなのに、印象があまりよくないのは何故か。

手間がかかるがゆえに、パックを開ければすぐに食べられる既製品もよく出回っているのがこれらのメニューの特徴である。というかむしろ、専門店でもないかぎりこのへんのメニューはほぼ既製品だろう。それらのしんどいところは、なにぶん塩気も旨味も強すぎるところである。

f:id:tomofumi1981:20171029195246j:plain

製造されて店に到着するまで、衛生面、味、色、形とあらゆる制約に縛られるのが既製品のさだめである。そのため味が強いのも仕方がないし、加熱殺菌に耐えうるように、流通中に破損しないようにと、舌触りも固めに作られているし香りも図太い。

既製品、大量加工品が何もかもありえないとは全く思わない。たとえば厨房がない、調理者がいない現場で食べる楽しみに一役買うことができるならこれは素晴らしい技術の深化だと思う。問題は大した理由もなくこういった食材に易易と頼る使う側の姿勢だろう。

f:id:tomofumi1981:20171025200729j:plain

教科書的な料理書を見ると、私のそういった、知ってはいるけどわざわざ食べないレシピが丁寧な説明付きで載っていることが多い。手順を知って作ると、手間がかかる分学びにつながる作業が詰め込まれているし、仕上がった味は繊細で深みがある。なぜこの食材にこの調味料の組み合わせで、この手順を踏むのかがわかる味になる。ときにはそのレシピが生まれた文化の背景にまで一気に理解がすすんで、視界が晴れたような気分になることさえある。

そう感じてからは、なんとなく遠ざけてきたメニューでも期待をもって口にすることが増えた。考え方一つで食べる楽しみが増やせて何よりである。

目を閉じて吠える

f:id:tomofumi1981:20171026220713j:plain

自分が得た知識と経験をもとに即座に断言ができるのは、自分が直接目で見てかかわったことについてだけである。いつかもわからない昔からそういう考えが自分の思考の中心を占めている。そのせいであらゆる議論の場で悶々としてきた。言い返すのにふさわしい言葉が見つからないからである。

相手から、こういう理由があるから、こうすべきだ、と主張されると、あっそうなんや、じゃあすぐそうするべきだね、となってしまうので議論にならない。そしてこっちの事情を知らないはずの相手から批判や指摘を受けると、事実がこうだから違う気もするけど、そう言われるってことはそうなんすかね、すみません。となってやはり議論にならない。

f:id:tomofumi1981:20171025171851j:plain

自分が納得して血肉となった経験、知見でないと、いやそれはこうだから違う、と主張する気に全くならない。それでは良くないと、なるべく批判的な視点で会議に臨んでみたり発言してみたこともあったがどうも違和感しか残らないことが多かったので、もはや活発なテンションで仕事ができる年齢もそれなりに越えてきたことだし、もうこのままの自分を受け入れるのが一番いいだろうと思っている。あとは、そのまま独りよがりに陥らないように気をつけたい。そのためには、気は合ってもなるべく性格の違う友人を大切にすることと、他人から学ぶことを止めないことであろうかと思う。

記憶をたしなむ

f:id:tomofumi1981:20171009220328j:plain

土の味がするようで、苦手だった野菜がある。筆頭は里芋。他にはごぼう、にんじんにも土を感じていたし、じゃがいもも、茹でただけの状態のをそのまま口にするのは土臭くて苦手だった印象がある。

アスパラ、ブロッコリー、カリフラワーあたりの草っぽい匂いと辛みというか苦みというか口の残るあの後味のコンビネーションも苦手であった。

大根をおろすと台所に充満する金属的なツンとした匂い。大根はまだ煮れば食べられたが、その匂いをさらに鋭角にしたようなカブは煮てもまだそのクセが残る感じが苦手だった。本当に野菜嫌いの子供であった。

今となってはどれも好き嫌いなく食べられる。大人になると味覚が変わり、舌や鼻の感覚も鈍ってきて、やがて苦手だったものも食べられるようになるという話があるが、どうもそれだけではない気もしている。

f:id:tomofumi1981:20171001142155j:plain

子供の頃はいまよりも、自然が遊びに密着していた。土をほじくったり草をちぎったり木の枝を折ったり。雨に錆びた鉄棒やブランコやで手が鉄臭くなったり。その頃はそんな土や草や鉄やらの匂いを鼻や手のひらに毎日毎日吸いこんでは汚れては遊んでいたんである。

幼い子供は食べたいものを自分で選べない。母親なり家族が作る食事が口にするすべてである。そんな自分にとって、もっと美味しそうなものが他にあるのに何で野菜みたいに、土みたいな草みたいな、苦くて妙な匂いのするものを食べないといけないのだと憤っていたのだと思う。

さて大人になって気がつけば、土や草の匂いにかこまれて遊ぶこととも遠ざかり自ら汚れてまではしゃぐこともなくなった。食べたいものを好きなときに好きなだけ選んで食べることができるようにもなった。すると、遠ざかった昔の匂いが野菜の中にあることに気づいて懐かしみが湧く。けっして大好物になったわけではないが、妙にひと口、もうひと口と後を引いて味わっていたりする。

スリルが絶望に変わる前に

f:id:tomofumi1981:20170923124621j:plain

醤油の安心感は、ときに敗北の味でもある。日本人にとって、親しみのある懐かしい味とは何かといえば、醤油、味噌といった基礎調味料、鰹節、昆布といった風味原料、刻みネギや漬物の芳香、塩鮭や干物の焼ける匂いなど、昔からの食生活に組み込まれた味がそれだと思う。特に醤油のおよぼす安心感たるや、乳児にとっての母乳に匹敵する引きの強さだろう。

しかしこの安心感が時に、私に敗北感をもたらす。多少料理を趣味とする者であれば、いつかは市販のカレールーやパスタソースやドレッシングやといった加工食品に頼らず、カレーやパスタやサラダを自ら作り出すことにチャレンジするものである。それらはいずれも、もとを辿れば日本の料理ではない。作る側としては、なるべく、その現地のルーツを感じさせるようなレシピで作りたい。そのほうがロマンがあって良い。カレーであれば、個々のスパイスを買い集めて自ら配合したり、パスタであればスーパーよりも百貨店や専門店のオリーブオイルや麺やハーブにこだわってみたり、ドレッシングであれば日本の酢やサラダ油よりも輸入のワインビネガーやピーナツオイルをわざわざ探してきたりして、作りたいのである。

そしてレシピになるべく基づいて作り始める。いよいよ完成に近づいてきたときに味見をしてみて大体こう思うのである。なんか物足りない、と。

わざわざ遠出してまで買ってきた素材や、レシピブックに格好良く映る完成写真やを眺めて、できあがった味にうっとりする自分を想像していたはずなのである。なんとか補正したい。脳内補正ではなく、ちゃんと味を補正したい。しかし味見をしていくうちに、舌が麻痺してよけいわからなくなる。

焦点の定まらない目をしてキッチンの床にたたずんでいると肩の上から悪魔が囁く。醤油を入れたらどうだ、と。

そんなことをしていいのか、私は、こだわりにこだわって食材を集め、憧れのイタリアやインドやフランスを思い浮かべてなるべくそのルーツに近い味を知りたくて作りはじめたではないか。当初の気高き理念はどこへ行ったのだ。

しかし、ここへ来てアンコントローラブルな目の前の完成途上品を、脳内補正だけで食べ切れるのか。まして友や、家族や、恋人に、食べさせることができるだろうか。どんな感想もフォローにしか聞こえないような晩餐の時をすごすのは、嫌だ。

目の前の鍋、あるいはボウルに、いつもの手に馴染んだ醤油のボトルから15ccほどを垂らしてみる。ざっくりと全体を混ぜ、味を確かめる。ああ、そうだこの味だ。なんて安心感だ。

敗因は、概ね共通している。レシピの最終項目にだいたい記載されている「塩・こしょう 適量」の文字だ。醤油に慣れている私達にとって、適量の塩ほどコントロールしづらいものはない。塩単体は、醤油よりも重量比5倍、6倍は塩辛い。しかも結晶であるために、馴染んでから塩味を感じるまでの時間差がある。当然、塩味しかしない。このストロングな存在感に、慣れない私は何度自らの不甲斐なさを呪ったことか。

醤油は塩分だけでなく原料から生まれる旨味や匂いがある。何よりも親しみのあるその口当たりがすべてを包み込む。スーパーに並ぶ、大手ブランドのパスタソースやカレールーやドレッシングの裏ラベルを見れば、ほぼもれなく醤油の文字が並んでいることがわかるだろう。

目の前の料理は、それなりに食べられる味になった。しかしその味は、憧れのルーツに今日も辿り着けなかった、敗北の味。

粘膜に忍び寄る不安

 

f:id:tomofumi1981:20170915221839j:plain

f:id:tomofumi1981:20170909160836j:plain

f:id:tomofumi1981:20170909102908j:plain

歌で言うなれば夏も残すところ8小節ほどとなり、9月の台風が猛り狂う予感を示す東京で風邪をひいていた。朝、元気にジョギングをして、着替えて電車に乗り、事務所についたころまでは良かった。ものの1時間もしないうちから悪寒、更に1時間で震えと関節痛。この5,6年ほど風邪の訪れはだいたいこのパターンである。夕方まだ早めに家に戻り布団をかぶる。体温は38度を越え、夜半には39度を越え、目を閉じると幻覚、布団の上で平衡感覚を無くして朝まで苦しむ。翌日正午ごろには熱も下がり、頭痛関節痛は残るものの復活と言える状態にまで持ち直したがここからの数日がまた地獄であった。症状の延長なのか、薬の副作用なのか、口内炎が舌先から舌の根、上顎の奥までいくつもできたのである。舌の根元の脇に柔らかいところがあると思うがそこに至っては、いくつかの口内炎がくっつきあって広範囲に痛い。体調は戻っているのに水を飲むのすら苦痛で飯の味などわからない。どうにかまた時間を作って医者にかかっても原因不明と薬を変えられただけでもう2日苦しみ、ついにやめてはならんと釘を刺された薬を飲むのをやめてやった。飯をおいしく食べられなかった日は寝る前もむしゃくしゃするし起きて口内炎がましになっていないと朝から気分が悪い。この繰り返しを我慢するのは懲り懲りだったからだ。

すると翌朝から炎症は引いていき、昼過ぎにはもう痕跡を残す程度に回復したではないか。これが薬のせいなのか症状がひいたのか判別つかないところがもどかしい。若い時にはちょっとした体調不良でも、回復の目処がだいたい立てられたようなことが、これから年々その症状を少しずつ複雑なものにしていくのではないかと不安になる。いくら毎日が大変だと言っても、寝食を邪魔するものさえなければ大抵のことは楽しくやっていけるはずである。つまりこの2つを邪魔するものに対しては我慢せず動いていこうと心した次第。

胃袋(の安心)を買いに

f:id:tomofumi1981:20170826121314j:plain

f:id:tomofumi1981:20170823205735j:plain

f:id:tomofumi1981:20170816204243j:plain

8年ぶりに胃カメラを飲みに行った。わざわざ「飲む」という言い回しが、なんとなくえらぶっているように感じなくもないけれど、あれは文字通り喉から食道へ進む際に「ちょっと飲み込んでください~」と声をかけられるし、そうしないといつまでも喉の奥で留まって苦しいので、あながち大げさでもない言い回しなのである。問診中に「前にやったことあれば、大丈夫ですよねえ」と看護師の方に言われて、いやあえへへと笑っていたけども、何度やろうがしんどいことはわかっていたので内心穏やかではなかった。

前日は21時までしか食事がとれず、朝起きてコーヒーも朝食も我慢、病院へ朝8時30分にたどり着き、同じように空腹を耐えているであろう仲間たちが集う待合所に。暇を持て余しマガジンラックを覗くと新聞や文春やnon-noに交じって「おとなの週末」。内視鏡室に集う人間の心情を理解しておれば決して置くべきではないグルメな一冊に苦情を言い立てたくもなるが空腹なので抗う元気も無い、なんとか飲み終えて結果通達、幸い異常は見つからずということで安心して病院をあとにしたものの、検査中に空気を入れるせいなのか腹が張って異様に苦しく、きゅうきゅうと痛い。空腹感はあるのにまったく食事をする気がしない。

絶食明けの食事は、味覚を超えた満足感を味わえる食体験の一つであると考える自分にとって、その記念すべき1食目を考えるのは楽しみでなければならないのだ。それがこんなにも辛く苦しいとは、胃カメラを飲み込む試練に匹敵する苦痛である。それもこれも複雑に入り組んでいる人間ならではの内臓のせいである。多くの魚は食道~胃袋~腸~肛門までが一直線と聞く。奥歯をガタガタ言わせることができるとすれば相手は魚に限られるのだ。