繰り返す無いものねだり

f:id:tomofumi1981:20170814155010j:plain

 

 

10ウン年振りに炭火をおさらいしようと七輪に向かい合うこと数週間。改めて炭の楽しさを味わった。それにしても火起こしから逆算すると、家庭用の少量でも一時間弱は前もって準備が必要だから空腹には堪える。

着火の問題をクリアしても、焼いている間の煙がまた面倒であった。脂身のついた豚バラや鶏のもも、イワシのような脂の多い魚は、焼く途中で煙の多さに断念した。なにげに玄関を出て外の排気口を見たら、怖くて隣近所と顔を合わせたくないくらいの量が吐き出されていたので音を立てないように玄関を閉めた。

f:id:tomofumi1981:20170803223907j:plain

それでも炭がよかったのだ。焼いている間に刻々と変化する火加減をちょこまかと調整し、煙や火がなるべく出過ぎないように様子を眺めているのは楽しい。マニュアル車に乗るような気分に近い。そして何よりその炭ならでは香りとドライな焼き上がりが好きである。特に香りに限っては電気ガスでは事足りない。炭の匂いが付けられる食品香料はあるけれども。

今回使ったのはいわゆる「オガ炭」木くずを押し固めて作られる成型炭というもの。対して、備長炭などといわれる木の形をそのまま残したタイプの炭もあるがこちらは高級品である。そんな高級品がオガ炭と何が違うのかちょっと調べてみると、どうやらピーク時の火力が強いのと炭の香りがあまり付かないことがよいらしい。

確かに焼き物をするのに木炭しか熱源がなかった時代は何を焼いてもその香りがつくわけだから、逆にあの香りが付かないことのほうが純粋に料理を味わえるという意味で付加価値だったのかもしれない。しかも火力が強いほうがいいのであれば、ガスや電気が取って代わるのは無理もないことである。それが今や炭の香りを楽しみたくて火起こしや火加減の不便を取るという、一周回って無駄が無駄でなくなる感じが楽しい気がする。

せっかちの瞳に映らない色

f:id:tomofumi1981:20170712214703j:plain

f:id:tomofumi1981:20170712214946j:plain

あまねくすべての料理は常に出来たてが最高においしい状態だ、と信じていた。そうとは限らないということを理解したのは、ごく最近のことだった。猫舌なので、自分は最高においしい熱々の状態を味わえない不幸な部類の人間だと思っていたくらいである。

行列ができる人気のとんかつ屋に行ったときのことだった。カウンター10席ほどしかないその店は、並んでいるうちに注文を聞いて全席入れ替え制で客を回転させていくスタイルである。しばらく待ってようやく入店というとき、まず目にとびこんできたのは厨房奥の揚げ鍋の横のバットに、すでに揚がったとんかつが並んでいる様子だった。

これでは揚げたてを味わえないじゃないか?人気店となると行列をさばくのも大事なことだろうからそれも致し方ないことなのか、と少し気落ちして提供を待った。しかし目の前に現れたとんかつは、湯気を立てたその断面を一切れこちらに向けているではないか。

火照りきって内側にとどめきれなくなった肉の水分が断面に滲み出している。さっそく口に含むと、決してぬるくなく、豚肉の力強さが十分伝わる温度はまさに適温なのであった。いままで、熱すぎて味がわからないような出来たてを有難がっていたのはなんだったのだ。

自分はこれまで、「余熱で火を通す」というキーワードを疑っていた。それは、仕事柄いかに調理をシンプルでクイックなものにするかを追求する機会が多かったことと関係があると思う。チェーンオペレーティング的にいかに調理を単純化するかに腐心していた当時の自分には受け入れられない、曖昧で属人的な調理過程だったのだ。味10点、スピード6点のレシピなら、味7点、スピード9点くらいにする気持ちでやっていた。ずっとそういう考えでいたのだから余熱を調理の一環として受け入れる余裕などなかった。

とんかつを油から取り出して3、4分。揚げた直後は行き場を失っていた肉汁がこの間ちょうどいい具合に肉の繊維の隙間に落ち着く。切った直後の断面が薄いピンクになっているくらいだと言うことはない。これがまた、食べ始めるころには落ち着いた色合いに変化する。ジューシーさがピークを迎える。

味とスリルと安全と

f:id:tomofumi1981:20170722142551j:plain

f:id:tomofumi1981:20170722173050j:plain

f:id:tomofumi1981:20170722173903j:plain

とあるフレンチ技法の本を通読していたときのこと。「ポトフ」といえば一般的にセロリや人参やじゃがいもやを肉と一緒に煮込んで作るものだと思うのだが、その筆者である料理人曰く、日本の野菜は味がなく甘ったるいので肉だけで作るのがよいと。何でも、ヨーロッパで穫れる野菜のように、煮込んだ肉の味に比肩するだけの力強い味が日本の野菜にはないらしい。そういわれると途端にヨーロッパの野菜が旨そうに感じる食い意地が張った性分である。

身近に畑はあったが実際に作業をしたことがないのでわからないが、土や肥料や品種や育て方やいろんなものが違うのだろうか。大体が水の質からして硬水と軟水の違いとか、季節のめぐり方とか、気温湿度の違いとか、確かに同じものが作れるわけではないことはなんとなく想像はできる。

しかしまた別の機会にとある記事で、日本の野菜はほぼすべてがF1といわれる一代雑種の作物で、いわば野菜の食べる部分を効率よく作るだけの品種であって種は取れてもその種を育てて野菜にすることができないという話を目にした。F1の野菜は原種の野菜と違って安定して大量に収穫でき、均一な形は出荷選別にメリットが高く、味に癖がすくないため万人に受け入れられるということで現在スーパーに並ぶ野菜はほぼF1種であるという。

この2つから、ヨーロッパには原種の野菜が一般的なため日本の野菜に比べて味が濃く、F1種が普及するにつれて日本の野菜の味はどんどん特徴の薄いものになっていった、といえるのかもしれない。

事実がどうなのかはわからないが、ないものねだりをこじらせるのはほどほどにしたいと思う。

鍋が取りもつ色濃い沙汰

f:id:tomofumi1981:20170709124246j:plain

f:id:tomofumi1981:20170709124425j:plain

f:id:tomofumi1981:20170715171909j:plain

1時間、2時間と煮込んで煮込んで、なかなか柔らかくならない肉が、ちょっと目を離したすきに、柔らかくなっている。その瞬間、急にその肉のことが愛おしく感じられてくるから不思議である。さっきまでは、よそよそしいほどの弾力で箸を払われていたのが、いつしかすっと箸を受け入れてくれるようになる。なんとなく青春の1ページのようでもある。

肉の繊維を結びつけているのはコラーゲンで、いわば筋肉やらがその形を保つように、しなりがありつつ強度がある物質として支えている。ちょこっと煮たり焼いたりするだけでは熱でタンパク質が縮む=筋肉がぎゅっと引き締まるので当然もともと固いコラーゲンはよりいっそう固くなり、噛み切れない代物になる。このコラーゲン的なものを、じっくり長い時間かけて加熱することでそのつながりをほぐすことが柔らかく煮込むということになる。

身近に素材の加熱ができるのは、水か油か火である。味をつけながら長時間加熱し、なおかつ素材の水分を残すには水がもっともふさわしかろうというのをきっとご先祖様がいろんな失敗のすえに見つけて言い残してくれたのだろう。そして今や一口に煮るといっても、たくさんの手順があるものである。

直接味を入れて煮始める方法、まず下茹でする方法、下茹でに糠や唐辛子やらの助材を入れる方法、煮る前に焼き固める・炒める方法、等々。

素材に合わせて方法は無限にありそうで悩ましいが、おいしく煮るために共通しているのは、煮て火を通したら一度冷まして味を含ませるということのようだ。先人の知恵に感謝して今日もコンロに火をつける。

 

さて、豚の角煮というのは注文すると大体高い割にボリュームがないと憤慨される諸氏も多いのではないか。あれは、柔らかくなるまで煮込む時間がただでさえ長いうえに、そこから冷まして味を入れたりまた温めたりと手間がかかるしその間柔らかくなった肉がいくつかは崩れて商品にならなかったりするので、ガス代やら手間やら歩留まりの問題でどうしても売価に跳ね返って来やすいものなのである。

もしくは、長い時間かけて振り向いてくれた相手を簡単には手放したくないのかもしれない。

この夏いちばん熱い油脂

f:id:tomofumi1981:20170709134510j:plain

f:id:tomofumi1981:20170709133255j:plain

f:id:tomofumi1981:20170709133142j:plain

 

夜こそ揚げ物が食べたい。近年糖質制限というキーワードで油より炭水化物が悪者にされがちだが、重量あたりのカロリーでいえば油は炭水化物の倍なんである。ぶっちぎりだ。

 

なぜ揚げ物は油でないといけないのか。水で揚げ物はできないのか。揚げ物とは高温の液体で食材を包み込みまんべんなく急速な加熱を行う調理法である。そのおかげで食材の表面はカリッと香ばしくなる。その最適温度はだいたい160-190℃だ。沸騰して無くなる水と違い、この調理に向いている液体が結局油しかないのである。

油に包み込まれているぶん、食材はその表面から油を多かれ少なかれ吸い込む。この吸油量というのは実は正確に算出するのが大いにむずかしい。揚げる温度が高いと吸い込みが抑えられるが、低いと火が通るまでだらだらと吸い込む。だいたい普通に調理してフライ物の吸油は20%ほどと言われているらしい。

例として、家庭でカキフライを食べるとしよう。カキフライなら一人あたり5個くらいは食べるとして4人家族で20個。カキフライ1粒がだいたい15gくらいとすると300g。カキフライ300g揚げて20%=60gの油=480kcalが衣に吸われていることになり、一人あたり15g約大さじ一杯の油=120kcalを、揚げ物を楽しむ代償として摂取していることになる。カキ一個が15kcalくらいでパン粉をつけて約25kcalくらい、油で揚げなければ5個で125kcalで済むところを15gの油が足されて245kcal。さらにタルタルソース(スプーン1杯約80kcal)もかけるとなると?だがこうやっておいしくして食べているのである。

しかし、油は食材の影響で温度が下がるから、一度にどれくらい食材を入れたかでその吸油率はおおきく変動する。家庭用の揚げ物鍋でだいたい1リットルからもうちょっとくらい。食材を一度に油に投入するとまず温度が一気に下がる。

揚げ物は揚げ時間も目安だが、やはり箸でさわってみてカリッとするまで揚げたいもの。しかし一度下がった油の温度は上がりにくいので必然的にダラダラと、油の中で火を通すことになる。油がどんどん吸われていく。

 

普通に調理しても、食材と同じくらいのカロリーをプラスして食べているのに、低い温度で長時間揚げる羽目になるとその吸油量はいわずもがな増えていく。カロリーはもう計算したくない。

家庭では、油面いっぱいにカキフライを入れることはやめて、面倒でも5,6個ずつくらいで揚げていただこう。

 

水を、160℃くらいまで沸騰せず温度を上げることはできないのか?そうすればカロリーゼロの液体で加熱だけができるではないか。サクサクの揚げ物を夢の食べ放題である。

水の沸点を160℃くらいまで上げるには、6気圧必要らしい。6気圧を体験するには自分が調べた限り、水深50mまで潜ることが一番手っ取り早いようだ。水中で着火する方法を模索する必要が出てきた。もう諦めて油を摂取しようと思う。

肉汁のやり場に困れ

f:id:tomofumi1981:20170606214302j:plain

f:id:tomofumi1981:20170606214540j:plain

f:id:tomofumi1981:20170606215140j:plain

せっかく水気をしっかり含んだいい肉だったのに、切るタイミングを間違えたようで、カットした瞬間肉汁が流れ出してしまった。

焼き固めてじっくり加熱した赤身肉は風船のように張ってくる。こういった場合は無理にステーキにせず冷まして薄くスライスしてもよかった。ステーキにするならもっとサクッと短く焼いてレアにしようと反省。

文頭にも述べたが肉が含んでいる水分というのが実に肝要で、水分の多い少ないでおいしさが変わるというか、おいしく焼けるかどうかが変わる。肉の断面から内側までしっとりしていれば多少乱暴に焼いても均一に火が通る。逆に乾燥がすすんでいると火が通りきるまでの時間を稼ぐことができないので、パサパサになりがちである。霜降りの肉より赤身のほうが肉本来の味が~とはいうものの、上手に焼けていない赤身は噛むだけでしんどい。霜降りは多少乾燥がすすんでようと、脂のおかげで柔らかくしっとりと感じる。せっかくたまに自宅でステーキを、というなら霜降りをそれなりに含むものを選んだほうがやはりいいだろう。もしくはヒレ肉を選ぶか。

切り身で売られているステーキ肉はやはり表面が乾いていることが多いだろうから、できれば精肉売り場で重さを指定してスライスしたてを持って帰るのがベター。

粉物ローカライゼーション

f:id:tomofumi1981:20170511221514j:plain

f:id:tomofumi1981:20170511221017j:plain

f:id:tomofumi1981:20170511222943j:plain

 

流行とは対象が本来広く持ち合わせる多様性を否定する現象でもある。讃岐うどんが流行ったときに我々は歯ごたえのないうどんはうどんではないかのように振る舞ったではないか。

ラーメンとて、博多とんこつの細麺が流行れば、とんこつに関係のないラーメン屋でも太さに関係なくとりあえず固め、もしくはバリカタといっておけば格好がつくと思い、粉臭い麺をもそもそと頬張っていた向きも少なからずあったろうと思う。

しかし世を追うごとに、自分がいかにメディアからの情報を整理して理解した気になっていたか、我が舌が味覚を以て思い知らせてくるのである。

宮崎うどんの釜揚げは、箸で持ち上げて何とか千切れずにいる、といったふるふると頼りない佇まいである。しかし、つゆをくぐらせ口へ運ぶとそのはかない食感が舌を優しく包み込む。どれだけ柔らかく煮たおかゆでも、宮崎うどんの優しさにはかなわない。質量の軽さと柔らかさがつゆの塩気を絶妙に和らげて口いっぱいに広がる感覚は、本来液体であるはずのつゆが、半固形となって出汁の旨み甘みを伝えに来るように感じる。

山梨は富士吉田のうどん。このうどんは反対に、凶暴な歯ごたえに満ちている。風邪を引いた子供を連れて現地の医者にかかっても、消化にいいからうどんをあげなさいとは言われないだろう。なぜなら吉田のうどんはいくら長く茹でても柔らかくなりようがない。みしっ、と歯が沈むその歯ごたえは噛むほどに香り立つ匂いに小麦粉の底力を感じる。つゆの味は表面にしか乗らない。しかしうどん自体にも丁度よい塩気がついているから本来味がないはずのうどんが噛むだけでその甘さや風味が口に広がってきて心地よいのである。

全国区に知れ渡って天下を目指すもよし、地元に帰ってローカルの重鎮になるもよし。