空きっ腹に海苔

https://www.instagram.com/tmfmi1981/

粘膜に忍び寄る不安

 

f:id:tomofumi1981:20170915221839j:plain

f:id:tomofumi1981:20170909160836j:plain

f:id:tomofumi1981:20170909102908j:plain

歌で言うなれば夏も残すところ8小節ほどとなり、9月の台風が猛り狂う予感を示す東京で風邪をひいていた。朝、元気にジョギングをして、着替えて電車に乗り、事務所についたころまでは良かった。ものの1時間もしないうちから悪寒、更に1時間で震えと関節痛。この5,6年ほど風邪の訪れはだいたいこのパターンである。夕方まだ早めに家に戻り布団をかぶる。体温は38度を越え、夜半には39度を越え、目を閉じると幻覚、布団の上で平衡感覚を無くして朝まで苦しむ。翌日正午ごろには熱も下がり、頭痛関節痛は残るものの復活と言える状態にまで持ち直したがここからの数日がまた地獄であった。症状の延長なのか、薬の副作用なのか、口内炎が舌先から舌の根、上顎の奥までいくつもできたのである。舌の根元の脇に柔らかいところがあると思うがそこに至っては、いくつかの口内炎がくっつきあって広範囲に痛い。体調は戻っているのに水を飲むのすら苦痛で飯の味などわからない。どうにかまた時間を作って医者にかかっても原因不明と薬を変えられただけでもう2日苦しみ、ついにやめてはならんと釘を刺された薬を飲むのをやめてやった。飯をおいしく食べられなかった日は寝る前もむしゃくしゃするし起きて口内炎がましになっていないと朝から気分が悪い。この繰り返しを我慢するのは懲り懲りだったからだ。

すると翌朝から炎症は引いていき、昼過ぎにはもう痕跡を残す程度に回復したではないか。これが薬のせいなのか症状がひいたのか判別つかないところがもどかしい。若い時にはちょっとした体調不良でも、回復の目処がだいたい立てられたようなことが、これから年々その症状を少しずつ複雑なものにしていくのではないかと不安になる。いくら毎日が大変だと言っても、寝食を邪魔するものさえなければ大抵のことは楽しくやっていけるはずである。つまりこの2つを邪魔するものに対しては我慢せず動いていこうと心した次第。

胃袋(の安心)を買いに

f:id:tomofumi1981:20170826121314j:plain

f:id:tomofumi1981:20170823205735j:plain

f:id:tomofumi1981:20170816204243j:plain

8年ぶりに胃カメラを飲みに行った。わざわざ「飲む」という言い回しが、なんとなくえらぶっているように感じなくもないけれど、あれは文字通り喉から食道へ進む際に「ちょっと飲み込んでください~」と声をかけられるし、そうしないといつまでも喉の奥で留まって苦しいので、あながち大げさでもない言い回しなのである。問診中に「前にやったことあれば、大丈夫ですよねえ」と看護師の方に言われて、いやあえへへと笑っていたけども、何度やろうがしんどいことはわかっていたので内心穏やかではなかった。

前日は21時までしか食事がとれず、朝起きてコーヒーも朝食も我慢、病院へ朝8時30分にたどり着き、同じように空腹を耐えているであろう仲間たちが集う待合所に。暇を持て余しマガジンラックを覗くと新聞や文春やnon-noに交じって「おとなの週末」。内視鏡室に集う人間の心情を理解しておれば決して置くべきではないグルメな一冊に苦情を言い立てたくもなるが空腹なので抗う元気も無い、なんとか飲み終えて結果通達、幸い異常は見つからずということで安心して病院をあとにしたものの、検査中に空気を入れるせいなのか腹が張って異様に苦しく、きゅうきゅうと痛い。空腹感はあるのにまったく食事をする気がしない。

絶食明けの食事は、味覚を超えた満足感を味わえる食体験の一つであると考える自分にとって、その記念すべき1食目を考えるのは楽しみでなければならないのだ。それがこんなにも辛く苦しいとは、胃カメラを飲み込む試練に匹敵する苦痛である。それもこれも複雑に入り組んでいる人間ならではの内臓のせいである。多くの魚は食道~胃袋~腸~肛門までが一直線と聞く。奥歯をガタガタ言わせることができるとすれば相手は魚に限られるのだ。

パン粉が目に染みる

f:id:tomofumi1981:20170816214035j:plain

先週とあるエビに謝罪をした。あのエビは、私を赦してくれただろうか。

その昔、海や港の近くならいざしらず、スーパーに並ぶエビ、お惣菜に使われるエビはだいたいブラックタイガー一強という印象だった。しかし、少しスーパーを見てもらえればわかるとおり、ここ10年ほどで勢力バナメイエビに取って代わられつつある。

私はこのエビを世にいうむきエビとして、お惣菜のサラダやエビチリとして出くわし、そのあまりに味がなく水っぽく魚介類のクセだけは舌に残るという印象がそれはもう大変好きになれなかったのだった。

しかしバナメイエビはそれはもう大変な勢いで世に浸透したようで、いつの間にか単にエビと名乗ればそれはバナメイ、というほどに見かけるようになる。そうして私は、おのずからバナメイエビを買い求めることは極力避け、外食チェーン店のエビチリやエビマヨ、立ち食いそばの海老天、ほか弁のエビフライに対しても、もう彼らは遠い過日に親しんだブラックタイガーではないのだと、これまたなるべく避け、場合によっては他人へその立場を毀損するような発言をするようになってしまった。

さて、ほぼ冷凍で流通するこういったエビには保水という技術がある。リーズナブルに大量消費されるエビ類は、だいたいブロックで凍結されたりバラバラに凍結されて日本に届く。なかでも、殻をむいて加工される彼らの味と歯ごたえを保つために発達した技術である。その存在はかねてから見知ったつもりではあったが、どうやらこの技術により私はバナメイエビについて誤解していたようなのであった。

話は先週に戻る。スーパーでふとバナメイが目に入った。普段なら間違っても手にしていなかったはずのパッケージを無意識に手に取っていた。これまで見たものよりも毅然と、かつしなやかな佇まいをもっていたのだ。その殻を脱がせて内側を確かめたい。無性に心が昂ぶった。気がつけば、私はバナメイを抱え気ぜわしく帰路についていた。

キッチンに入り扉を閉める。乱暴に、パックに巻き付いたラップを剥ぎ取る。ブラックタイガーに比べればその殻、身は繊細で、柔らかい。エビフライにしよう、とそうっと殻を剥きとっていき、背わたを抜いて伸ばし、衣を当てる。なぜ、こんなにバナメイに期待しているのか、自分でもわからないほどだ。

しかし熱気を上げる揚げ物鍋から取り出した一本目をかじった瞬間、この行きずりの出会いに心から歓びを感じたのだった。

これまで否定していたあの水っぽさはなく、むしろ繊細ながら身の詰まった歯ごたえはとても上品で、エビならではの甘い香ばしさも口いっぱいに広がる。うまいじゃないか。旨みの濃さは立派な他のエビほどではないにせよ、後味の軽さは随一だ。私が誤解したあの水臭い味は、保水されたむきエビならではの味だったのだ。

ねじふせられるような濃厚な色気は、愉しみを長く味わえるこの奥ゆかしさに比べると疲れる日もあるのだ。

無心に残りを平らげて、真正面からこれまでの不実を詫びたのだった。

繰り返す無いものねだり

f:id:tomofumi1981:20170814155010j:plain

 

 

10ウン年振りに炭火をおさらいしようと七輪に向かい合うこと数週間。改めて炭の楽しさを味わった。それにしても火起こしから逆算すると、家庭用の少量でも一時間弱は前もって準備が必要だから空腹には堪える。

着火の問題をクリアしても、焼いている間の煙がまた面倒であった。脂身のついた豚バラや鶏のもも、イワシのような脂の多い魚は、焼く途中で煙の多さに断念した。なにげに玄関を出て外の排気口を見たら、怖くて隣近所と顔を合わせたくないくらいの量が吐き出されていたので音を立てないように玄関を閉めた。

f:id:tomofumi1981:20170803223907j:plain

それでも炭がよかったのだ。焼いている間に刻々と変化する火加減をちょこまかと調整し、煙や火がなるべく出過ぎないように様子を眺めているのは楽しい。マニュアル車に乗るような気分に近い。そして何よりその炭ならでは香りとドライな焼き上がりが好きである。特に香りに限っては電気ガスでは事足りない。炭の匂いが付けられる食品香料はあるけれども。

今回使ったのはいわゆる「オガ炭」木くずを押し固めて作られる成型炭というもの。対して、備長炭などといわれる木の形をそのまま残したタイプの炭もあるがこちらは高級品である。そんな高級品がオガ炭と何が違うのかちょっと調べてみると、どうやらピーク時の火力が強いのと炭の香りがあまり付かないことがよいらしい。

確かに焼き物をするのに木炭しか熱源がなかった時代は何を焼いてもその香りがつくわけだから、逆にあの香りが付かないことのほうが純粋に料理を味わえるという意味で付加価値だったのかもしれない。しかも火力が強いほうがいいのであれば、ガスや電気が取って代わるのは無理もないことである。それが今や炭の香りを楽しみたくて火起こしや火加減の不便を取るという、一周回って無駄が無駄でなくなる感じが楽しい気がする。

せっかちの瞳に映らない色

f:id:tomofumi1981:20170712214703j:plain

f:id:tomofumi1981:20170712214946j:plain

あまねくすべての料理は常に出来たてが最高においしい状態だ、と信じていた。そうとは限らないということを理解したのは、ごく最近のことだった。猫舌なので、自分は最高においしい熱々の状態を味わえない不幸な部類の人間だと思っていたくらいである。

行列ができる人気のとんかつ屋に行ったときのことだった。カウンター10席ほどしかないその店は、並んでいるうちに注文を聞いて全席入れ替え制で客を回転させていくスタイルである。しばらく待ってようやく入店というとき、まず目にとびこんできたのは厨房奥の揚げ鍋の横のバットに、すでに揚がったとんかつが並んでいる様子だった。

これでは揚げたてを味わえないじゃないか?人気店となると行列をさばくのも大事なことだろうからそれも致し方ないことなのか、と少し気落ちして提供を待った。しかし目の前に現れたとんかつは、湯気を立てたその断面を一切れこちらに向けているではないか。

火照りきって内側にとどめきれなくなった肉の水分が断面に滲み出している。さっそく口に含むと、決してぬるくなく、豚肉の力強さが十分伝わる温度はまさに適温なのであった。いままで、熱すぎて味がわからないような出来たてを有難がっていたのはなんだったのだ。

自分はこれまで、「余熱で火を通す」というキーワードを疑っていた。それは、仕事柄いかに調理をシンプルでクイックなものにするかを追求する機会が多かったことと関係があると思う。チェーンオペレーティング的にいかに調理を単純化するかに腐心していた当時の自分には受け入れられない、曖昧で属人的な調理過程だったのだ。味10点、スピード6点のレシピなら、味7点、スピード9点くらいにする気持ちでやっていた。ずっとそういう考えでいたのだから余熱を調理の一環として受け入れる余裕などなかった。

とんかつを油から取り出して3、4分。揚げた直後は行き場を失っていた肉汁がこの間ちょうどいい具合に肉の繊維の隙間に落ち着く。切った直後の断面が薄いピンクになっているくらいだと言うことはない。これがまた、食べ始めるころには落ち着いた色合いに変化する。ジューシーさがピークを迎える。

味とスリルと安全と

f:id:tomofumi1981:20170722142551j:plain

f:id:tomofumi1981:20170722173050j:plain

f:id:tomofumi1981:20170722173903j:plain

とあるフレンチ技法の本を通読していたときのこと。「ポトフ」といえば一般的にセロリや人参やじゃがいもやを肉と一緒に煮込んで作るものだと思うのだが、その筆者である料理人曰く、日本の野菜は味がなく甘ったるいので肉だけで作るのがよいと。何でも、ヨーロッパで穫れる野菜のように、煮込んだ肉の味に比肩するだけの力強い味が日本の野菜にはないらしい。そういわれると途端にヨーロッパの野菜が旨そうに感じる食い意地が張った性分である。

身近に畑はあったが実際に作業をしたことがないのでわからないが、土や肥料や品種や育て方やいろんなものが違うのだろうか。大体が水の質からして硬水と軟水の違いとか、季節のめぐり方とか、気温湿度の違いとか、確かに同じものが作れるわけではないことはなんとなく想像はできる。

しかしまた別の機会にとある記事で、日本の野菜はほぼすべてがF1といわれる一代雑種の作物で、いわば野菜の食べる部分を効率よく作るだけの品種であって種は取れてもその種を育てて野菜にすることができないという話を目にした。F1の野菜は原種の野菜と違って安定して大量に収穫でき、均一な形は出荷選別にメリットが高く、味に癖がすくないため万人に受け入れられるということで現在スーパーに並ぶ野菜はほぼF1種であるという。

この2つから、ヨーロッパには原種の野菜が一般的なため日本の野菜に比べて味が濃く、F1種が普及するにつれて日本の野菜の味はどんどん特徴の薄いものになっていった、といえるのかもしれない。

事実がどうなのかはわからないが、ないものねだりをこじらせるのはほどほどにしたいと思う。

鍋が取りもつ色濃い沙汰

f:id:tomofumi1981:20170709124246j:plain

f:id:tomofumi1981:20170709124425j:plain

f:id:tomofumi1981:20170715171909j:plain

1時間、2時間と煮込んで煮込んで、なかなか柔らかくならない肉が、ちょっと目を離したすきに、柔らかくなっている。その瞬間、急にその肉のことが愛おしく感じられてくるから不思議である。さっきまでは、よそよそしいほどの弾力で箸を払われていたのが、いつしかすっと箸を受け入れてくれるようになる。なんとなく青春の1ページのようでもある。

肉の繊維を結びつけているのはコラーゲンで、いわば筋肉やらがその形を保つように、しなりがありつつ強度がある物質として支えている。ちょこっと煮たり焼いたりするだけでは熱でタンパク質が縮む=筋肉がぎゅっと引き締まるので当然もともと固いコラーゲンはよりいっそう固くなり、噛み切れない代物になる。このコラーゲン的なものを、じっくり長い時間かけて加熱することでそのつながりをほぐすことが柔らかく煮込むということになる。

身近に素材の加熱ができるのは、水か油か火である。味をつけながら長時間加熱し、なおかつ素材の水分を残すには水がもっともふさわしかろうというのをきっとご先祖様がいろんな失敗のすえに見つけて言い残してくれたのだろう。そして今や一口に煮るといっても、たくさんの手順があるものである。

直接味を入れて煮始める方法、まず下茹でする方法、下茹でに糠や唐辛子やらの助材を入れる方法、煮る前に焼き固める・炒める方法、等々。

素材に合わせて方法は無限にありそうで悩ましいが、おいしく煮るために共通しているのは、煮て火を通したら一度冷まして味を含ませるということのようだ。先人の知恵に感謝して今日もコンロに火をつける。

 

さて、豚の角煮というのは注文すると大体高い割にボリュームがないと憤慨される諸氏も多いのではないか。あれは、柔らかくなるまで煮込む時間がただでさえ長いうえに、そこから冷まして味を入れたりまた温めたりと手間がかかるしその間柔らかくなった肉がいくつかは崩れて商品にならなかったりするので、ガス代やら手間やら歩留まりの問題でどうしても売価に跳ね返って来やすいものなのである。

もしくは、長い時間かけて振り向いてくれた相手を簡単には手放したくないのかもしれない。