錯視と小銭

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卵の個数差で人はどこまでお金を出せるのか。カツをとじる卵の個数で価格が変わるカツ丼は初めて出会った。卵が増えることで丼の上にもたらされる幸せが、ぱっと思いつかなかったが、その字面に脳と体が反応し、「並盛り卵二個+赤だし」を注文してしまったのだった。

ちなみにカツ丼にかぎらず、卵とじは卵の量が多い方が仕上げが楽である。さらに卵とじについて述べるとする。卵を入れてから小刻みに揺らすと鍋にくっつきにくくなる。だが、つゆが濁って美しくないというデメリットがある。あまり丁寧に卵を溶くとふんわり感がなくなると言われている。ちょっと割ったくらいで溶かずに卵を入れると白と黄色のコントラストがはっきりして美しい。が、きれいに仕上げるのが難しかったりする。

券売機についてここで考える。おじさんが多い店で売上を上げるのが券売機である。

年々視力が劣化しているおじさんにとって、細かなボタンで数々ラインナップされた券売機の前に、すぐ後ろに行列ができがちな昼時に立つことほど焦ることはそうそうない。つまりおのずと券売機の左上のほう、または他より大きいボタンで主張されているボタンのメニューを押しがちである。そして大抵、そういうボタンはおすすめと言う名の単価アップメニューである。

そうなのだ。字面がよかったなどと、偉そうなことをよくも言えたものだ。自分が押した「並盛り卵二個+赤だし」は、一番上の真ん中にある他より大きなボタンであった。それを選択した理由が、ただの「並盛り卵一個」が券売機から見つけられなかったせいなのかどうかは、今はもう思い出さないでいたい。

 

株式会社 吉兵衛 | 神戸三宮発の老舗かつ丼専門店 かつどん・よしべい

モツを動かす

 

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ホルモンは、生まれたときから内臓というハンデを背負っている。生きている間も不随意筋として主となる生き物の消化活動を休みなく処理し続け、ときにガンや潰瘍といった病に襲われながらも老廃物にまみれてその一生を全うする。

随意筋である筋肉=赤身の面々が、分厚い脂肪や皮に守られて傷つけられることなく成長し、屠畜場でも丁寧に切り分けられ個体識別番号とともに艶やかな精肉として出荷されていくのに対し、ホルモンは生前の苦労に報いられることなく、詰め込まれるように番号も与えられず十把一絡げに処理されていく。生死をまたいでもなおカーストに苦しめられるのである。

そうやって、生きている間から屠殺されてからも延々と厳しく辛い扱いを受けてきたゆえに、ホルモンたちは自分の個性を主張しがちであり、相手によってはそのクセを敬遠されてきた。だが、それは周囲の接し方の問題だけなのである。

とある駅で出会ったホルモンうどんに盛り付けられたシマチョウは、豊満でありながら無駄を落としたハリのある身体と、持ち前の色白をこれでもかと主張しながら、うどんの上で箸をつけられるのを待っていた。不遇な彼らがこうやって、重ねた苦労の分だけ積み上げてきた内に秘めたる魅力を発揮している場面に出くわすと涙を禁じ得ない。

鮮度がよいうちに丁寧な下処理をされ、剥がれやすい脂を失わないよう優しく取り扱われていくうちに、シマチョウは思っただろう。なぜ、こんな汚れた私たちにそこまで優しくしてくれるの?と。

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生前の営みをねぎらうような施しを受けるうちに、シマチョウは自分の魅力に自信をつけ始めたはずである。そして願っただろう、人々の前で輝きたいと。

十分な下処理をされたシマチョウの脂身は朝の雪のように光を集めて白く、じゅわっと湧き出る脂肪をたくわえながらも上等な牛の甘い香りと口溶けが上方風のうどんだしに上品なコクを与える。しっかり噛むとぷつんと歯切れる腸壁もじつに官能的で、また、薄くすきとおった色味からは想像もつかないほど昆布と鰹の旨味を抱えてまろやかな塩味でまとめられたうどんだしが、シマチョウの個性を引き立ててなお出汁と脂のよき相性を主張してくるのであった。

あまねくホルモンたちに、この歓喜を伝えたい気持ちになって仕事へ向かった。

 

河内うどん 近鉄八尾駅

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圧縮しない勇気

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うどん店で、つきだしに牛タン。おそらく塩煮込み、もつ焼き屋ではゆでタン等と呼ばれるものだ。まず出汁を一口。節や煮干しがしっかりと匂い立つ。しかし二口目からは塩っぱく感じられ、正直面食らった。

しかしながら、あくまで料理の主役は出汁ではない。煮種を口に含むと、タン特有の鉄赤い肉臭さに、凝縮された魚の香りが絡みついている。その2つの匂いに負けない塩気が、舌の脇からどっぷりと唾を湧かす。すべて解け合い、飲み込んだあとに残る余韻、満足感は、このたった10g程度の肉塊を味わっただけのものとは思えない。

おでんの味も、色の濃さ以上だ。渋いほどの醤油感、しかしそのアク強さを支えるだけの出汁の強さ、甘み。味を吸わないこんにゃくが、表面の水分と引き換えに味を吸い込んでいるのがその質感からわかるほど。

匂い、香りの強さに拮抗する味の強さというのが存在する。チューインガムやファンタのような、開けた瞬間立ち込めるような抑揚のないフルーツの匂いは、実際の果物にはない。果汁100%のジュースでも、いまや濃縮還元だと多くが香料が添加されているようなものだから、刺激が足りないと実物が作り物に売り負けるのかもしれない。

記号的に再現すれば、食べ物の匂いは表面上はおいしそうに感じる。しかしそれはあくまで上面のものであって、バニラビーンズのようにわずかなら惹きつける香りも強すぎるとむせるようなものや、繊細すぎてすぐ消えるもの、時間とともに臭くなるもの、ゆずやすだちのように香りは鮮烈でも果汁は酸っぱくてそのまま食べられないようなケースもある。いいとこばかりではないんである。そういう個性とつきあいながら楽しむのも食生活の一部だと思う。

最初強すぎると思ったこの店の味は、食べ進むうちに素材が持つアクの強さを手懐けたような、その抑揚や長所短所を味わいで拮抗させた末のうまさなのだと感じた次第。野菜そのものの味、うどんの食べごたえにも、その様子が現れていた。

 

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一滴八銭屋 新宿

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若きトリ肉の悩み

鳥千 府中

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愛され体質、という言葉があるが、バナナは果物における愛され体質の白眉であろう。優しい甘み、歯も生え揃わぬ乳児でも噛める柔らかさ、皮が剥きやすく、マットな質感と程よい厚みの皮が指をベタつきから守る。さらに微妙な反り具合が、手に持ったときにさりげなく口元へ向かう様子。全てにおいておもてなしの心を兼ね備えるバナナが、果物界の愛され体質であることは万人が認めるところであろう。

そのバナナに比肩しうると考えるものの一つにモスバーガーのモスチキンがある。世の中には他のフライドチキンは敬遠してもモスチキンなら、という人は多いとみている。

競馬場に10数年ぶりに足を運ぶ機会があった。その一角にある売店で販売されていたフライドチキン。モスチキンと同じ形状だった。あの形状には、愛され体質の秘密がある。あの独特の形状にした鶏肉は、それまでのフライドチキンが持つ過剰と過少、両方の課題を均衡させた存在なのである。

フライドチキンには、時と場合によりその選択肢としての相応しさを問われる要因がいくつかがある。その一つは骨だ。

骨は、手に持つときにたしかに便利である。しかし、手に持ったその重みに対し、占める割合少なからぬのが骨の厄介なところだ。肉と思ってかぶりついて骨に歯があたった瞬間、この肉も所詮この程度か、と興醒めた経験はないだろうか。骨の厄介な所以はそれだけではない。

骨に残った肉をどこまでこそげ落として口にするかの判断が難しいのである。みっともなさを恥じる人ならその様子を他人に見られたくないし、女性であれば口紅等メイクにもたらす影響も無視できない。歯の弱い中高年は筋が歯に挟まる懸念もあるものだ。ことほど左様に、骨はフライドチキンに対する人々の評価を左右してきたのである。

もう一つは脂肪である。フライドチキンはただでさえ揚げ物であるところに、これが皮付きのもも肉を使用するとなるとそのカロリーは、皮なしのむね肉の倍ほどに上る。なにより、くどい。不健康を承知で食べる食事は、あくまでも味と健康へのエクスキューズのバランスが取れてこそ、その背徳的な魅力を最大化する。最も脂の少ないささみという部位があるが、その淡白さは健康に寄りすぎていて味とのバランスが満たされているとは言い難い。パサパサのフライドチキンほど、人間の決めた覚悟に対するリターンを否定した存在はない。

ここで、モスチキンの形状がもつ優位性を私達は理解すべきなのである。鶏の腕の付け根からつながるむね肉をひとつなぎに切り出したその形状は、もも肉ほどの脂感はなく、かといってささみほど物足りなさではないむね肉を中心とする。さらに、持ち手として活躍するわずかな骨を除けば、目に見える範囲はほぼすべて食べられるというスペック。

おもてなしを生み出した日本が誇るハンバーガーチェーンが、シグネチャーアイテムとするに何とふさわしいことか。

 

競馬場で買い求めたそのフライドチキンは、細かいパン粉で揚げられていた。これではチキンカツだ、と私は思った。しかも、売店の隣はモスバーガーであった。いろいろ深掘りしたい気分を抑え、寒空の下レースのない静かな馬場を眺め完食し帰宅。

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境界の渚にて

漆の実 金沢

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自分は字が汚い。小学生くらいのころに、きれいな字でなくてもいい、丁寧に書きなさい、と親や先生に言われた。しかし自分はその丁寧という感覚が、わからない子供だった。ゆっくり書くことなのか、力を入れて書くことなのか、だんだんと、自分がどうやって字を書いていたのかもわからなくなるほど細かいことまで考えがめぐりだす。指先感覚のゲシュタルト崩壊を経て、何度書きなおしても何一つ納得できる仕上がりにならないことに苛立ち、結局何回も消しゴムをかけて黒ずんだ紙に書いた全く愛着のわかない字を恨めしく見つめていた記憶がある。

丁寧とはきっと、過去からの知見に即して手順や方法を守り、道具の持つ本来の役割を存分に引き出したうえで物事に当たることだ。ムラのない泡に満たされた抹茶、ホットサンドの繊細な焼き目の加減、汁粉の粒が揃ったあずきと美しく配置された白玉をみて、そう思った。

何よりここは漆器販売がメインの店だから当然なのかもしれないが、碗の内側にお茶がハネたような形跡や、皿や盆に焼いたパンならではの細かいパン屑が散った様子も感じられない。そもそもが素敵な器類なのに、食べ物が丁寧に盛られたことでなおさら魅力が増したように感じた。漆器ならではの手に伝わる温度と柔らかい触感は言うまでもない。

丁寧さは、行き届けば行き届くほどあたかも当たり前のこととして目に映るものなのかもしれない。

トリックフリーな一年

喜はな 金沢

http://www.ki-hana.jp/

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今年は一年の中に巡り表れる季節の違いと降り立った土地をなるべく意識した食事をすることにしたいと思った。この数年、仕事を通じて各地に同じような中身のSCやモールが次々と建っていることを実感して、現代が一年を通してその食材の旬がいつなのかどこの出自なのかを気にすることなく同じ食材が手に入る時代であることを初めて肌で感じることができた。年中季節感のないメニューを、どこで作られた食材であっても口にできることは、当然のことだと長らく自分が考えていたことも認識した。むしろ季節感や産地の特色すらも、ビジュアルやコピーといった記号的な刺激のみで場所と時間をとわず生み出されている。単にその浅ましさを憂うべきだろうか。

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その背景を遡ろうとすればするほど、強い願いと希望に裏付けられた先人の努力、格闘の足跡を知った。どんな技術もその発生の時点では、その時代にない価値を生み出す輝ける卵であった。

卵はその普及とともに生まれる歪みをさらに修正する二次的三次的役割をもつ新たな卵を作ろうとする人々の元手となっている反面、ただ卵の即物的価値のみを量で捌く人々の元手ともなっている。産み手のみならず買い手をも結果的に消耗させているのがどちらであるかは言うまでもない。

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ただ、生まれながらのデジタル世代がこれからを占めるにつれ、情報がもたらす刺激の洪水は結果誰しもが求めるものになりえるとは考えにくいところもあると思う。それが人々が何かに気づいた結果なのか、単に操り手が代わった結果なのかはわからないが、確実に過去に合理性を求めて構築した仕組みは時代に対し不合理を起こしている。次に日本の食生活が示す姿がどういうものになるのか、想像しつづけたいと感じた年始。

多湿に強い味

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今年最も記憶に残った食事の一つはベトナムの街角で夜中に食べたフォーと焼き飯だった。タクシーでたどりついたのは、十字路の角でわずかな蛍光灯しか照っていないコンクリの薄暗いガレージ的な場所で、調理台と鍋とまな板、野菜と肉と麺が常温で放置された屋台。その前に客席として、プラスチックの長ベンチが5つ6つ、低いテーブルにはビニールにくるまれたミントの葉と調味料。ビールは常温しかないので、冷たいのがほしければ隣の売店で買ってこいという。客席、といっても路上だが、反対側にはガスをつないだ簡易なコンロと中華鍋。

フォーは、麺を丼にいれたら生の牛肉の薄切りをのせ、スープの余熱だけで肉に火を通しているから肉が柔らかくてうまい。ただ、その生肉を切っているまな板は、一度も根本的な洗浄を行った様子はなく赤い肉汁が染み込んで黒ずんでいるのだった。さらに、スープ。ガレージの隅ででかい寸胴に何の肉と骨かも到底わからないような塊がずっと炊かれていた。アクも脂も掬われている様子がなくどんより濁っているそのスープだったが、供されたときにはなぜか透明感があるのだった。その理由はよくわからなかったが、これがまたうまかった。

客席と同じく路上にオンされたコンロでは、中華鍋に油と卵が入れられかきまぜられていた。半袖短パンの調理人はそれを放置してガレージの中にひっこみ、しばらくしてボッコボコにへこんだ炊飯ジャーの内釜を持って出てきた。中はどうみてもカピカピで団子状になったご飯なのだが、それを無造作に中華鍋にいれ、いよいよ鍋を揺らしはじめる。途中、2リットルくらいのペットボトルから得体の知れない赤い油がどぼどぼと注ぎ込まれる。健康への不安がよぎる。また鍋を揺らし全体を混ぜ始める。そして出てきたのは、なぜか一粒一粒に均等に香ばしく色づいた実にうまそうな焼き飯なのだった。酔った舌でもわかるほど動物系の旨味がガツンとやってくる味は、味の素とかなのかもしれないけども、他にはない味を楽しんだ。

一連の様子に、さあおいしいものを作ってやろう、という意志は見て取れなかった。だがけっして投げやりな行為ではないとも感じた。ただ無表情なだけで、手つきは実にこなれている。この人達は、この日もいつもとおなじく客の注文に応じて焼き飯とフォーを作るというただ生業を繰り返している限りなのであって、それを見ている自分の興味のほうがここでは特異なのだと感じた夜。