空きっ腹に海苔

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スリルが絶望に変わる前に

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醤油の安心感は、ときに敗北の味でもある。日本人にとって、親しみのある懐かしい味とは何かといえば、醤油、味噌といった基礎調味料、鰹節、昆布といった風味原料、刻みネギや漬物の芳香、塩鮭や干物の焼ける匂いなど、昔からの食生活に組み込まれた味がそれだと思う。特に醤油のおよぼす安心感たるや、乳児にとっての母乳に匹敵する引きの強さだろう。

しかしこの安心感が時に、私に敗北感をもたらす。多少料理を趣味とする者であれば、いつかは市販のカレールーやパスタソースやドレッシングやといった加工食品に頼らず、カレーやパスタやサラダを自ら作り出すことにチャレンジするものである。それらはいずれも、もとを辿れば日本の料理ではない。作る側としては、なるべく、その現地のルーツを感じさせるようなレシピで作りたい。そのほうがロマンがあって良い。カレーであれば、個々のスパイスを買い集めて自ら配合したり、パスタであればスーパーよりも百貨店や専門店のオリーブオイルや麺やハーブにこだわってみたり、ドレッシングであれば日本の酢やサラダ油よりも輸入のワインビネガーやピーナツオイルをわざわざ探してきたりして、作りたいのである。

そしてレシピになるべく基づいて作り始める。いよいよ完成に近づいてきたときに味見をしてみて大体こう思うのである。なんか物足りない、と。

わざわざ遠出してまで買ってきた素材や、レシピブックに格好良く映る完成写真やを眺めて、できあがった味にうっとりする自分を想像していたはずなのである。なんとか補正したい。脳内補正ではなく、ちゃんと味を補正したい。しかし味見をしていくうちに、舌が麻痺してよけいわからなくなる。

焦点の定まらない目をしてキッチンの床にたたずんでいると肩の上から悪魔が囁く。醤油を入れたらどうだ、と。

そんなことをしていいのか、私は、こだわりにこだわって食材を集め、憧れのイタリアやインドやフランスを思い浮かべてなるべくそのルーツに近い味を知りたくて作りはじめたではないか。当初の気高き理念はどこへ行ったのだ。

しかし、ここへ来てアンコントローラブルな目の前の完成途上品を、脳内補正だけで食べ切れるのか。まして友や、家族や、恋人に、食べさせることができるだろうか。どんな感想もフォローにしか聞こえないような晩餐の時をすごすのは、嫌だ。

目の前の鍋、あるいはボウルに、いつもの手に馴染んだ醤油のボトルから15ccほどを垂らしてみる。ざっくりと全体を混ぜ、味を確かめる。ああ、そうだこの味だ。なんて安心感だ。

敗因は、概ね共通している。レシピの最終項目にだいたい記載されている「塩・こしょう 適量」の文字だ。醤油に慣れている私達にとって、適量の塩ほどコントロールしづらいものはない。塩単体は、醤油よりも重量比5倍、6倍は塩辛い。しかも結晶であるために、馴染んでから塩味を感じるまでの時間差がある。当然、塩味しかしない。このストロングな存在感に、慣れない私は何度自らの不甲斐なさを呪ったことか。

醤油は塩分だけでなく原料から生まれる旨味や匂いがある。何よりも親しみのあるその口当たりがすべてを包み込む。スーパーに並ぶ、大手ブランドのパスタソースやカレールーやドレッシングの裏ラベルを見れば、ほぼもれなく醤油の文字が並んでいることがわかるだろう。

目の前の料理は、それなりに食べられる味になった。しかしその味は、憧れのルーツに今日も辿り着けなかった、敗北の味。